オルハン・パムクのトルコ美術史ミステリー「わたしの名は紅」について尊敬するブログでとりあげられていて、
私もとても大好きな本なので、珍しくトラックバックして書こうとしたら操作ミスで [ という文字しか打たないまま送られてしまいました・・・・・。 大変大変失礼いたしました(泣) さて、「わたしの名は赤」では、 イスラーム圏の伝統的絵画・ミニアチュール(細密画)とルネサンス以降の西洋絵画、 個人としてのスタイルを持つ芸術家と、個人の手のあとを残さず古典の完璧な模倣を行う職人、そのせめぎあいが描かれているわけです。(それがまたばっちり殺人事件のキーになっているというつぼをついたおもしろさ。) 日本画をやっていたわたしとしては、これは遠いトルコのお話というだけでなく、他人事ではない問題を提起している小説でもあります。 西洋絵画の受容と反発、そして失われていく独自性。 現代では、洋画と日本画の区別がつかないという声がよく聞かれます。また明治以降は「西洋絵画に近いものほど進んだ・優れた絵画である」という意識が支配した時代だったと思います。おそらく今でも。 たとえば遠近法。 手前のものは大きく、奥のものは小さく見える。 常識ですね。たぶん道に沿って並ぶ建物が X <のような補助線を引かれて透視図法を現している絵なども見たことがある人は多いんじゃないでしょうか。 ではもし絵に、手前のものは小さく、奥のものは大きく描いてあったら? もし遠くのものも近くのものも同じ大きさで描いてあったら? 多くの人は、遠近法が「間違っている」と思うはずです。 稚拙だな、昔の人は遠近法を知らなかったんだな、と思うかもしれません。 実は手前のものは小さく、奥のものは大きくというのは、仏画や中世ヨーロッパのキリスト教美術に見られる遠近法です。 知ったときには私もびっくりしました。 その場合の手前と奥は、その絵を見ている人間とは逆なんです・・・! つまり仏さんやキリストさんの視点から見れば、 手前は大きく奥は小さく、遠近法は「正しい」ということになります。 ルネサンスというのは人間中心の時代です。 人間の固定された視点を獲得した、逆に言えば神の視点を失った時代なのです。 すでにさまざまに言われているかと思いますが、ルネサンスの絵画はリアルになります。生き生きとして触れそうです。でも神を描いても聖人を描いても、それはやっぱりただの「人間」にしか見えないのではないか、という疑念があります。 そりゃあ殺人事件も起こりますよ(笑) 遠くも近くも同じ大きさで描くのは、アッラーの視点。 西洋の遠近法や技法を取り入れることは、アッラーの視点を捨て、一介の人間の視点のほうを重視するということなのですから。
by youmei-uzbek
| 2006-09-27 23:58
| 絵・美術関連
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